H25「労働やまがた12月号」今月のひと

黄綬褒章受章
マルタ醸造株式会社 
代表取締役会長 工藤 祐三郎さん

 日本の食卓には欠かせない身近な食品の味噌。その味噌作りに半世紀近くも専念され、この度、平成25年秋の褒章で黄綬褒章を受章された、マルタ醸造株式会社(寒河江市)代表取締役会長の工藤祐三郎氏に、自然にこだわった味噌作りのこと、一から取り組んだ味噌新工場建設までの道のり、味噌作りのこれからについてお話をお聞きしました。
どんな味噌を作られていますか?

  信州味噌系統の淡赤味噌と、仙台味噌系統の赤黒い色をした完全熟成味噌です。我が社では、味噌本来の優良微生物の働きによって、米、大豆を分解し発酵熟成させる事により、自然に醸し出される風味を大切にした美味しい味噌作りを目指してきました。

 マルタ醸造では、機械を使って一度に米は600-800キロ、豆は700キロぐらい使用し、2500キロぐらい味噌を作ります。味噌は次の手順で作られます。

① 米を精米し、洗穀機(せんこくき)という機械で洗浄し、水に一晩つけた後、蒸し釜で1時間ほど蒸します。
   その後冷却し、麹菌を植え付け、麹室(こうじむろ)という室温が30℃-31℃の部屋に48時間入れて菌を繁殖させることで麹を作ります。

【洗穀機】工場の3階部分に設置されています。
【麹室】定置型天幕式自動製麹装置により、温度管理されています。

② 豆は洗穀し、一晩水につけた後、圧力釜で最初は無圧で2時間位煮た後に圧力をかけて約20分蒸します。その後冷却し、チョッパーという機械で潰します。

【圧力釜】約120℃で蒸します。
【チョッパー(粉砕機)】

③ ①で出来た麹と②の潰した豆と塩を混合して樽に入れ、そこに発酵を促進する酵母や乳酸菌を加えて数ヶ月熟成させます。ここまでの工程を「仕込み」と言います。

【混合機】4枚の羽が回転し、麹・塩・潰した豆を混ぜます。
【味噌樽】約2.5トンの味噌が入っています。仕込み後1ヶ月位したら、醗酵を促進させるため天地返しをします。

④ 発酵・熟成後、樽の中の味噌を混合機という機械で混ぜて、袋詰めにして完成です。

【混合機】 熟成した味噌を撹拌します。
【袋詰め作業】異物の混入がないかどうかも検査しながら、容器に味噌を詰めます。

 この一連の手順のなか、味噌作りには2つのポイントがあります。

 ポイント1 手順①-麹菌の米への植え付けと繁殖
 味噌の上手な発酵には良い麹が不可欠なので、麹づくりは重要な工程です。麹菌は植物と同じで芽を出して根を張って繁殖します。芽を出すためにも米一つ一つに麹菌の種が付くように撹拌し、均一に根付かせなければなりません。30℃-31℃の温度だったものが一晩置くと、麹菌が繁殖して熱を出し、そのまま放置すると50℃近くに温度が上昇し、使い物にならなくなってしまいます。

そんなに温度が上がるんですね。どうするんですか?

  一晩寝かせた翌朝の6時頃、製麹床に移し、みんなで交代で揉み解して35℃以下に冷まします。次に、薄く広げて35℃ぐらいを維持します。自然風で冷ましながら撹拌して広げる作業を繰り返すと、麹菌がだんだん繁殖して、米の中まで入っていきます。クーラーで冷却してから3日目で麹の出来上がりです。子供を育てるのと同じで、目を離すことができないので、その期間は気が抜けません。

【製麹床】
麹菌もご自分で作られるんですか?

  全国に4軒ぐらいしかありませんが、麹菌を作っている専門業者が京都と大阪にあり、そこから購入しています。
 ポイント2 手順③-麹の発酵・熟成
 米はデンプンから、豆はタンパク質から出来ています。それらを麹菌・酵母菌・乳酸菌の微生物が分解することで初めて“うまみ”が生まれます。(麹菌のアミラーゼという酵素はデンプンを分解してブドウ糖を、プロテアーゼという酵素はタンパク質を分解してアミノ酸とペプチドをつくる。ブドウ糖からは、酵母がアルコールを、乳酸菌が乳酸をつくる。)この発酵が進むのが、麹の場合25-30℃で、十分に発酵・熟成させることが美味しい味噌作りには欠かせません。

発酵・熟成の期間はどのくらいですか?

  自然発酵の場合は春から秋にかけて大体8ヶ月寝かせます。味噌に入っている塩は雑菌の繁殖を防ぎますが、一方で発酵に必要な菌の働きも阻害してしまいます。寒い冬だとなおさら菌は働かなくなります。冬は味噌が発酵しないので、夏の30℃くらいの気温の中で自然に発酵するよう春に仕込むのが、昔からのやり方でした。

自然発酵だと時間がかかるみたいですが、大量生産は可能ですか?

  寒河江市周辺に売るのであれば自然発酵で間に合いますが、全国に売り出すときは大量生産が必要です。そのときは、発酵する部屋を常に30℃くらいにして3ヶ月ほどで味噌をつくり、自然発酵した味噌と合わせて出荷します。短期間で完成したから添加物が入っているわけではなく、同じ原料のもと、早く発酵するように条件を整えたものです。ただ、冬の温度管理は人手も経費もかかります。

自然発酵以外に“うまみ”を作る方法もありますか?

 “うまみ”は化学的にも作ることができます。例えばよく添加物の表示で「調味料(アミノ酸)」とありますが、これは、大豆を塩酸で分解すると出来るグルタミン酸ソーダのことです。大量生産を求められる大企業では、発酵が十分ではないうちに出荷されるので、味を補充するためにこうした調味料やだし等の添加物を入れることがあります。


 自然にこだわって作ったマルタ醸造の味噌は、家庭用から業務用まで、県内のスーパーマーケットをはじめ、県外からも多くの注文があります。今はインターネット販売もしており、名古屋や大阪など遠方からの注文もあります。
 味噌作りに携わるのは、代表取締役会長である工藤さんも含め12名です。8名の従業員のうち、2名は営業や配達、6名が工場内で働いています。工藤さんも工場内で仕事をしています。味噌作りに携わる技術は、仕事をしていく中で徐々に身につけていくものですが、味噌業界で行う講習会にも参加して勉強します。味噌技能者1級・2級の国家試験があり、工藤さんと三男の社長、そして従業員の2名が、1級と2級の資格を持っています。
 味噌作りに向いている性格は、基本を押えることができる真面目な努力家であると語る工藤さんですが、ここまで味噌作りを築きあげるのに、どのような道のりを歩まれてきたのでしょうか。

 工藤さんの実家は、文久3年(西暦1863年)より、醤油、酢の醸造と土産物屋を営んでいました。明治5年からは呉服屋を開業しました。昭和34年に実家の経営を分離し、長男が呉服店を三男の工藤さんが醸造部門を継承することになりました。高校卒業後に東京農業短期大学校の醸造科に進学。その後、千葉県の(株)飯田本店(現在、ちば醤油(株))に1年間研修入社し、昭和34年に家業の醤油工場を継ぎました。

【インタビュー中の工藤さん】
家業を継ぐ以外の道を考えたことは?

  私は三男なので独立しなければならず、父からはサラリーマンでなく商売をするよう言われていました。子供の頃から電気機関車が好きだったこともあり、高校時代は機械工場をしたいと考えていましたが、まずは父に勧められた醤油醸造の仕事をしてお金が貯まったら自分の好きな商売をすることにしました。

実際、大学に進学されてどうでしたか?

  入学当初は一般教養と醸造の基礎勉強が中心であまり興味がわきませんでしたが、もともと理科は得意でしたし微生物の勉強に興味がわき、有機・無機化学の分析には大変熱が入りました。また、研修で訪れた大手醤油会社の機械化された大工場を見て、地元にはない設備に感動し、醤油工場でも発展できる!と夢が広がりました。それからは、夏休みや春休みも帰省せず、東京近辺の醤油工場に住み込みで見習いに行きました。

大学進学が転換点だったんですね。大学卒業後は?

  前時代的な実家の工場を近代的な工場にしたい、また、工場運営と技術を実際に学ばなければと思い、教授の紹介で研修入社しました。そこでは1年間修行し、主に麹造りと仕込み作業を叩き込まれ、ある程度麹造りが出来る様になったと思います。
 当時は自動機械が導入される前で、作業全てが人の手、人の目、嗅覚による作業、醤油麹の管理も泊り込みで肉体的に厳しいものでした。今は20-30キロ単位の原料をフォークリフトで運びますが、昔は60キロの袋を担いで運びました。 技術を覚える以前に労働に耐えて慣れることが出来なければなりませんでした。


 工藤さんは三男で独立の必要があり、当時の醤油工場の古い設備と敷地だけでは立ち行かなくなると考え、昭和38年にLPガス販売と設備工事の「マルタプロパンガス販売所」を開業しました。昭和40年に一般家庭からの需要もあって、一時中断していた味噌製造を再開しました。最初は大学時代の恩師の弟子に指導を受けながら味噌を作り、翌年の県品評会で好評を博しました。その後、試行錯誤を繰り返し、マルタ醸造の“月山山吹みそ”が生まれました。
 昭和42年、工藤さん30歳の時に、新工場の建設に着手します。資金不足のため古材を購入再利用し、プロパン設備工事の経験を生かし、配管工事一式は工藤さんが担当しました。旧工場で醸造を続けながらの移築でしたので、完了まで10年、軌道に乗るまで15年かかりました。この時期が一番苦しい時期だったとのことです。
 その後も、昭和62-63年にかけて長野県や新潟県の先進味噌工場や食品研究所を見学し、理想的な製造工程および機械装置を設計して、味噌工場を平成元年に増築しました。その成果もあり、平成元年より全国味噌鑑評会で22年連続入賞を果たし、平成7年と14年には赤系辛口みそで日本一の農林水産大臣賞を受賞されました。また、山形県醤油味噌品評会でも最高賞の県知事賞を18回受賞されました。

新工場の移築完了、軌道に乗るまでの15年間が一番苦しかったようですが。

  そうですね。実家に戻って家業を継いだわけですが、醤油屋を3、4年経験すると、学校の授業と実際やってみるのとでは全然違い、大変さを痛感しました。このままでは無理だなと思い、お世話になった農大の教授に相談に行ったところ、4年制大学に編入すると卒業後は助手にして、その後企業の研究所へ就職の面倒を見ると誘われたので、1ヶ月ぐらい勉強して大学の試験に合格しました。
 しかし、学生の時は研修にも行き、経営の勉強にと夜は簿記学校に通い、地元に帰って4年も働いたことなどを考えると、今醤油屋をやめては男が廃ると思い、踏み切れませんでした。当時は思い悩んでノイローゼの様な状態になりました。従業員も2名いて、給料を支払わねばならず、精神面も資金面も本当に苦しい日々でした。

迷った末に醤油屋を続けることにしたんですか?

  はい、教授から早く来るようにと連絡をいただきましたが、とうとう行かずに、結婚して醤油屋の仕事を頑張ることにしました。妻のためにも何としても暮らしていかなければと思い、ガスの勉強をしガス販売も始めました。
 昭和40年には味噌作りも再開し、昭和42年には田んぼだったところに工場を建て始めました。醤油・味噌・ガスを売って、そのお金で工場の設備を充実させるという、商売も工場移築も同時進行で猫の手も借りたいほどの忙しさでした。しかし、人を雇おうにも当時は、高度経済成長期で土建業に人気があり、こちらにはなかなか従業員が集まりませんでした。結局は、私と妻と3-4名の従業員で何でもやりました。

【工藤さんご夫婦】
何でもといいますと?

  子どもが3人生まれましたが、わたしは三男で両親も一緒に住んでいなかったので、子守りをしながらの仕事でした。当時、直売りや配達要員を雇う余裕がなく、私が2トントラックに商品を載せて販売していました。朝から販売に出かけるときは、子供を預けるところがなく、助手席に長男を乗せて行きました。当時「子連れ狼」が流行っていて、「子連れ狼が来たから、早く買ってあげて」とお母さんたちが声を掛け合って集まってくれたということもありました。
 お金も人手もない状態で、私も妻も寝る間も惜しんで、2人分、3人分働きました。だから工場を建てることが出来ました。普通に働いていたら建てられなかったと思います。正直、資金繰りが大変で、夜逃げを考えた時期もありました。

そこで踏み止まり、がんばり続けられたのはなぜですか?

  頑張れば頑張るだけ成果があったので励みにはなりましたが、何よりも高い目標があったから頑張れました。昔は「マルタ醸造」と言っても誰も知りませんでした。県内に醤油味噌製造業者が100軒以上ある中で下から数えて何番目ぐらいという生産量でした。農大にいた時に、東京近郊の大工場を見学して、「東北で一番になる」という高い目標を掲げましたが、今もって叶っていません。
 高い目標は支えになりますし、辛いときの我慢もできるようになります。人のためでなく自分のために努力しているのだから、商売を継いだからには石に噛り付いてでも頑張らなければという思いでした。自分がいいと思ったことは、どこまでも信じて突き進んだ方が良いと思います。

座右の銘を教えてください。

  「鶏口となるも牛後となるなかれ(大きな集団に従うよりも、小さな集団の長になる方が良い。)」、「塞翁が馬(世の中何が良いか分からないのだから、くよくよすることはない。)」これらを座右の銘にして、自分の生活より仕事を優先し全精力を傾けてきました。


 マルタ醸造では、平成23年に跡継ぎとして三男を社長に会社組織化されましたが、他に味噌や醤油を作っているところは、辞める人はいても新しく始める人はいないそうです。現在お店をやっていても、後継者不足でお店をたたむところも多いようです。業界の現状とこれからについてお聞きしました。

厳しい状況ですが、背景にはどのような問題がありますか?

  まず、昔と違って食生活も変化し、お惣菜や味付けがされているものを買う人が多いので、味噌も醤油も家庭で使用する量が減っています。そのうえこの辺りでは人口も減少していますので、必然的に消費量が減っています。
 また、大企業の醤油は、今スーパーで水より安く売られています。通常、醤油を造る場合、最低でも5-6名の人手と設備が必要なので、原料の麦や大豆にこだわると、水より安く出来るわけがないんです。このような価格では採算が取れないから、みんな作らなくなります。醤油の場合、大量に安く作っている業者から買ってきた物をブレンドして瓶詰めにして、ラベルを貼って売っているところも多くなっています。県内で実際に作っている醤油屋さんは5軒くらいしかありません。
 味噌を作る人も徐々に減っています。今作っている人は50-60歳代の終わりが多く、後継者がいないところがたくさんあります。大企業でさえ日本国内の消費だけでは成り立たず、世界中で売って利益を上げている状態です。また、最近は消費者も、味より値段でものを買い、安ければ良いという傾向がありますから、我々のようにこだわって作っている零細企業は大変です。

生き残るためにどうされていますか。

  他と同じような味なら、宣伝して全国で売っている大企業には敵いません。大企業とは違う上質な味噌を作り出すことが生き残るための絶対条件です。だからと言って日本一の味噌ばかり作るというのも、経営的に難しい点があります。
 そこで、家庭で使う醤油・味噌の金額の割合は小さいので、これからは他業種と組んで加工品に力を入れていかなければと思っています。例えば豚の味噌漬けの場合、味噌だけでは高が知れていても、上質な豚肉と我々の最高の味噌を合わせれば、「贅沢な豚の味噌漬け」として付加価値が高まります。加工品にすることで商品のレパートリーも広がります。ただ、加工品でも、大企業が販売しているインスタント味噌などと比較すると価格では立ち向かえないので、マルタ醸造の良さがより生かされる加工品を模索しています。

新しい試みの最中なんですね。

  今の味を守っていくことは基本ですが、小さいところは個性があってこそ存在価値があります。ドイツではビールが又ヨーロッパのワイン工場なども各地区、村々にもあるといいます。大企業の決まった味とはまるっきり違って、それぞれに個性があって大変美味しい、そこが魅力なんだと世界で評価されています。どちらかと言うと日本は画一的ですから、ドイツのように小さいけれど個性が生かされる環境になるといいですね。とにかく努力して、生き残れるように頑張らなくてはと思います。

今後の抱負を教えてください。

  現在、日本が世界有数の長寿国である理由の一つに「和食」があり、12月に世界無形文化遺産に登録されるとのことです。和食には、醤油や味噌の味付けを欠かすことはできません。和食が世界に認められれば、醤油と味噌の将来に展望が開けると思い希望が湧いてきたところです。更に、現在の仕事に精進したいと思います。

 
2013年12月1日