時代が大きく変わっていく中で、草履作りを守り続けてきた軽部社長。草履製造のお話から山形の草履の歴史、中国で奮闘されたお話まで幅広く伺いました。
当社で作っている草履は、植物を原料にして、手編みで作った本来の草履です。原料は稲藁、トウキビ、竹皮、い草で、用途によって変えています。特に、稲藁は「豊国」という品種の稲藁を寒河江市内で栽培して使用しており、軽部草履のこだわりです。
「豊国」は、背丈が140-150cmで、他の稲藁よりも背丈が30cmほど高いですが、草履を編むのに最適な長さの稲藁です。50年ほど前は草履づくりのため広く栽培されていたのですが、昭和40年ごろには需要もなくなり、一旦は栽培が途切れました。その後、寒河江市の酒造会社が豊国という品種が酒米に適しているということで復活させたという歴史があります。
“耕作者の会”が栽培しています。栽培した豊国は、酒造会社、耕作者の会、市役所、商工会、JA、当社で構成される“豊国活用研究会”によって、お酒や草履に活用されています。
平成3年から酒米用に豊国を栽培していたんですが、藁は粉々に刻んで田んぼに捨てていたんです。私の場合は、それを何とかもう一度草履に利用しよう、豊国草履を復活させようということで始めました。
草履に使うのは稲藁の節を切って抜いた芯の部分なので、まず節を取って、芯を出して、その次は束にするなど様々な下処理を経て、編み始めることができます。
編みあがった草履は、硫黄を燃やして出た煙が充満する部屋に入れて漂白します。それから金型に入るように寸法を整えて、「金型圧搾」を行います。
「金型圧搾」は、編んだ草履を金型に入れ、熱と圧力を加えて潰します。その日の気温や乾燥具合に合わせて、鉄板の温度や圧力のかけ方を微妙に調整します。熱も圧力も数字でわかるものではないので、全て感覚と長年の勘が頼りです。難しい作業の1つですが、草履の目がそろい、厚さも1cmから3mm程になって見た目が整う重要な作業です。
「金型圧搾」の後は、「顔そろえ」を行います。ある程度、色や形のバランスを見て左右同じような1足に揃える、つまり「草履の顔を揃える」という、かるた取りのような作業です。
最後に「製品加工」を行います。「製品加工」では、時代劇から注文が来た場合などに、身分や時代によって草履の種類も素材も違うので、それぞれに合わせた草履に仕上げます。例えば、幕末は稲藁草履の最盛期ですが、戦国時代・江戸時代初期では、金剛草履というい草で編み上げた草履が一般的でした。
先ほど触れた時代劇、相撲の行司、歌舞伎から文楽の人形が履く小さい草履まで納めています。大河ドラマにもほぼ毎年納めています。(取材中も、現在放送中の大河ドラマから追加注文が入っていました。)他には、全国各地のお祭りや、関東地方の一部の職人さんにも履いていただいてます。
豊国草履ですと、生産量が年間2千足ぐらいなので、主に行司、歌舞伎、文楽など伝統芸能で使われています。みなさんが見るものですし、昔ながらの豊国草履は、伝統文化ならではのこだわりですからね。
毎年8月に青森で開催されるねぶた祭りですと、全部当社の草履なので2万足は納めています。10年以上前は3万足でした。また、履き方にもよりますが、ねぶた祭りは動きが激しく1シーズンで終わる使い捨ての形ですので毎年納めています。豊国草履は、全国のお祭りの中でも、本当にこだわっている人の需要に応じるのが精一杯で、あとは他の素材の草履です。
もちろん手編みです。ただ、昔は河北町を中心に、農家の内職として一家総出で草履を編んでいたんですが、今では寒河江市周辺で草履を編める人は5人ほどで80代の方がほとんどです。また、草履は慣れている方が編んでも1日5足ぐらいで、人件費も高く、日本で手編みの草履を量産するには限界がありました。なので、今は中国でも編んでいます。
1日のうち平均して約3時間「金型圧搾」をして、その合間にお客さん対応や得意先への出張、あとは事務的な仕事をしています。他の仕事は2人いる息子が役割分担をしています。
1年のうち、繁忙期は4月-9月、特に7月-9月の暑い頃が一番忙しくなっています。芸能界に関しては季節を問わず1年を通して売れますが、祭りものは春祭り・夏祭り・秋祭りに合わせて注文があります。東京の「三社祭」、他には「ねぶた」「だんじり」などです。それから夏祭りと言えば、尾花沢の花笠祭りの草履は全部(3千何百足)当社の品物です。
その他の時期は、6月のねぶた祭りなど大きな出荷に備えておいたり、毎年コンスタントに売れる定番品を作ったりする蓄えの時期です。
東京で働いていたのですが、27歳の時、父の死をきっかけに帰郷し、この仕事を始めました。当時は、生活様式の変化に伴って、草履はスリッパや安全靴に変わり、商売、事業として難しくなってきた時代でした。昭和16年頃の最盛期には、西村山を中心に100軒を越す草履業者がいましたが、後継者がいるところはスリッパ業や、ニット、セーターのメリヤス業に転業し、後継者がいないところは、その代で廃業し始めた時期でした。
27歳で跡を継いだ時、まだ需要もある程度あったので同業者も15軒くらい残っていましたが、その中でも数量的に言えば当社は10番目くらいでした。私の場合は草履の在庫があったので、それを処分するだけでもやろうと思ったんです。ところが、私の兄弟や母に「草履は将来食べていけなくなるから辞めなさい」と言われ、スリッパ業者の方からも「スリッパの作り方を一から全部教えるから、草履は辞めてスリッパに転業しなさい」と勧められました。
よく考えてみると、草履の需要がゼロになるということはないんですよ。いくら文化が発展しても、やはり時代劇や歌舞伎、色んな祭りもあって、需要はあるんですよね。
ところが、家業を継いで10年くらい経った頃、生産がどんどん落ちまして、その当時でも年間約15万足需要があったので、このまま行くと需要はあるのに供給が出来なくなる。さらに地元の職人は年齢も上がり編む量も限られている。どうしようかと考えまして、人件費も安かったので、作り方を教えれば中国でやれるんじゃないかと、38歳の時、1986年に中国で事業を始めました。
当時は、中国進出する日本人もあまりいなかったですし、知り合いもいなかったので最初から手探り状態でした。
例えば、稲藁で編ませようと思っていたのですが、稲藁を使うと害虫や病気が入ってくるということで、中国では稲藁の輸入は禁止されていました。そこで、中国には一面のとうもろこし畑がありますからそれに目を付け、稲藁の代わりにトウキビの皮を使いました。
それから南の長江付近の竹にも注目しました。竹が成長すると、ポロポロ皮が落ちる。その皮を使って竹皮草履作ることにしました。始めは、トウキビの皮と竹皮の2本立てからのスタートだったんです。
草履編みについては、中国では草履を履く文化はないので、1986年当時60代ぐらいだった地元の編む職人さん達を中国に連れて行って技術を教えました。その後は、お互いに行き来する技術交流を通して、何とか日本の需要に間に合う数を生産出来るようになりました。今では、1人1日5足ほど編んでもらっています。
草履を編むのは、約100名の農家の人たちです。トウモロコシや麦の収穫の合間の農閑期に編んでいます。手先の器用な人を選抜して、編み方を習得してもらい、その人が村に帰って周りの人に教えるというやり方で広めました。器用な人とそうでない人では出来上がりに差が出てしまうので、生産者に番号を付けて誰が生産したかわかるようして、品質管理をしています。
そうして編まれた草履は、各村で集荷されて現地の工場に運ばれ、圧搾などの作業はその工場で現地の人にやってもらっています。
中国での事業をしなければ、今の豊国草履だけではやってこれなかった、生きていけなかったと思います。多分日本の草履も消滅してたんじゃないですかね。かつては、草履には、三重県、奈良県、静岡県、山形県の4大産地がありました。ところが私が草履製造を始めたころ、他の3県では、伊勢表が僅かに高級品として残っていたぐらいで、草履製造は消滅し、残るは山形だけでした。
もし私が辞めて草履がなくなっていたら、相撲の行司や時代劇で今頃何を履いていたんだろうと想像すると、続けて良かったと思います。
実は山形県は、主な生産地4県のうち、一番最後に生産を始めたんです。幕末時代に河北町の田宮五右衛門さんという人が草履の江戸表を習得し、この地域に普及しました。草履製造は元々は身分の低い人が行う仕事で差別的に見られていましたが、この西村山地区の温かい人間性と、田宮さんが熱心に普及活動したお陰で草履のイメージも向上し、結果的に主要な産地になりました。山形県で生産される豊国の60%近くを西村山が占めていました。
苦労はやはり中国での事業展開です。30代で始めましたが軌道に乗るまで10年掛かかりました。始めた当初は品質的に悪いものもあり、得意先や問屋に収めても返品され、それでまた中国に教えに行ってと、その繰り返しでした。
時間が掛かった原因には資金力不足もありました。資金があれば2-3年くらいで、職人を連れて行って技術を教えて圧搾機械も取り付けてと一度に出来たと思いますが、まず編む仕事で5年、編む品質も良くなって、ある程度儲かるようになって資金が出来たら、圧搾機を取り付けに行き、金型圧搾で3年、製品加工で2年。それでようやく、定番品はある程度中国で生産できるようになりました。まともな品物が出来るまで一つ一つ確実にという思いで10年です。私の人生の中で一番苦労したことですね。
中国での仕事をやって50歳を過ぎた頃、今から10何年前ですが、全国シェアの80%を越えた時「あぁ、やって良かった」と思いました。私の目標が達成できた、一段落したと思い、やりがいを感じましたね。
日本の需要に応えたい一心で、今まで頑張って来れたのですが、需要に応えると、その結果が様々なところで目に見えるのも嬉しかったです。例えば岸和田のだんじり、富山の風の盆など、当社の草履を履いているのを実際に行って自分の目で見ると、やはり感動しますし、やりがいや支えになります。テレビでも、大河ドラマはもちろん、時代物の舞台、相撲であれば行司さんの足元を私はいつも見てしまうんですよ。
いくら中国の人に編み方を教えて草履を作れるようになっても、今の作り方を日本人が忘れてしまったら終わりです。日本は藁が手に入る環境にあるので、草履の技術を伝承する、せめて技術だけでもという思いはありますね。そのために、草履継承の伝承館(平成22年に軽部草履株式会社の隣に建設し、実際に草履作りが出来ます。)も建設しました。こだわりの豊国草履だけは、最小限国内で生産できるように守っていきたいと思っています。
一方で、この仕事は作れば作るほど儲かりません。ただ、この技術を絶やさないだけのためにやるしかありません。ただ、教えるにしても、まずは息子や家族に覚えてもらって細々ながらやるしかないですね。
豊国草履の継承・継続です。やっていかなければならない、そういう目標です。また、いくらここで豊国草履を作っても数量的には限られますし、中国の人件費などの問題もあって、どの会社も生産地として中国プラスαでアフリカ、ベトナム、ミャンマー、東南アジアを掲げています。ある程度先を読まなければならない時代になりつつあると感じています。